日記(2023.7.16)
研究計画書をひとまず書き、文系院進希望者の互助会discordに投稿した。
(このdiscordは一昨日学問バーで同席したひとのTwitterから知った)
7月というのは院試関係の申込はほぼ終わっている時期だと今頃になって知る。
受験は来年かな。それでも間に合うのかわからないが……。
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学問バーでは院進をしたい、研究者になりたいというひとにたくさん会った。たくさん会いすぎて気圧された。
気圧された心を静めるために秋田摩紀(2007)「近代日本学者の文化誌 : 流行の中の学問」という文献(博論の要旨)を見つけたので、読む。
「「学者」創出は,有象無象の啓蒙家たちから「学者」を差異化するという論理によってなされたが,「理」によって大衆を説得しうるとする「学問」の論拠が,常に「理以外のもの」との差別化に負っているという批判自体は,すでに戯作者の著した窮理学のパロディ小説に内包されていたことを指摘している」(p.182)というくだりが興味深い。
というのもまさに、私が短歌に「理」がないことを批判し、「学者」の側に行こうとしたがっている人間だからだ。
博論本体も読んでみたい。
日記(2023.7.9)
修士進学の準備が進まない。
研究テーマがまとまらず、その状態で指導教員候補に面談を申し込むのがはばかられ(会った時点でマイナスの印象を抱かれたくない)ずるずると日が経ってしまう。
おおまかに関心は形を成してきたように思うが、それが研究するに値することなのか私ひとりでは確信が持てない。近い関心の院生と知り合って構想を話したりできればいいのだろうが、伝手がない。インターネットに関心を詳らかに書くのは、盗用される心配等考えてしまい気が引ける(ほとんど書いてしまっているが)
科目等履修生で学部相当の知識をまず学ぶべきなのか。大学時代は法学部だったので、文学について体系的に学ぶタイミングはなかった。
どうしようかな。
文献要約:宇佐美毅(1997)坪内逍遥における〈詩歌〉と〈小説〉 野山嘉正(編)『詩う作家たち:詩と小説のあいだ』 至文堂 p.30-41(前編)
第一の研究テーマは明治期小説の表現研究。第二テーマは現代小説の研究。
第一章では逍遥の『小説真髄』が「美術」の目的を明示し、その中で「小説」・「詩歌」いずれもの改良を射程に収めていたことが示され、しかし第二章で逍遥は「詩歌」が「小説」に取って代わられていくと考えていたことを書いている。
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※囲み数字は段落番号を指す
一 初期坪内逍遥と「詩歌」の改良
①-②
『小説真髄』の出発点は、「小説」をすべての芸術(「美術」)のひとつとして位置づけたことである。
⇒美術といへる者はもとより実用の技にあらねば只管人の心目を娯しましめて其妙神に入らんことを其「目的」とはなすべき筈なり(…)
⇒上述のように「美術」を定義すれば、有形(例:絵画・彫刻・嵌木 etc.)・無形(音楽・詩歌・戯曲 etc.)の違いはあるものの、本質的には「目的」を同じくする「美術」のひとつひとつとして考えることができる。
⇒もちろん小説も詩歌も同様であり、同時代的にこうした宣言をしたことの意味は極めて大きい。
③-④
同時代の『新体詩抄』作者たちには、「詩歌」も「小説」もすべて、本質的には目的を同じにする「美術」のひとつであるという逍遥の持っていた芸術観が欠けていた。すなわち、「詩歌」「小説」とは何かという本質論を欠いたまま、もっぱら実用的な意味での「改良」が推し進められてしまった。
そのことを考えあわせてみるならば、『小説真髄』は「小説」の「真髄」のみを論じるに留まらず、芸術全体を評価し直す試みという重要な意味を持っていたはずである。逍遥は小説改良論と同時に詩歌改良論でもあった。
二 「詩歌」から「小説」へ
⑤-⑥-⑦
しかし、「小説」と「詩歌」を「美術」のひとつとして位置づけ、その「主髄」「主脳」を同じものと考えていたからと言って、もちろん、逍遥が両者をまったく同様のものとして見ていたというわけではない。
逍遥は「詩歌の改良」なる詩歌論で「詩歌」も時代の要請によって変わらなければならないことを述べている。
⑧
問い:それでは、「文明の世」における改良された詩歌とは何か?
⇒逍遥は文明の詩歌とは「真成の小説」であると断言する。
「詩歌は即ち小説なり小説は即ち文明の詩歌なり」
⇒「詩歌」から「小説」への移行。その結果として「小説」こそが当代唯一の文学となることを逍遥は少しも疑おうとしていない。
⑨
問い:だが、それでは何故「詩歌」は「小説」に取って代わられるのか?
⇒逍遥はそれを「詩歌の改良」なる文章では詳述しておらず、検討は『小説真髄』に引き継いでいる。
⑩-⑪
問い:それでは、逍遥の「詩歌」観に関連する『小説真髄』の内容とはどのようなものか?
⇒詩歌:過去・短さ・単純・不自由
小説:現代・長さ・複雑・自由 のように二項対立的に捉えて論理を展開している。
そのような認識のもと、「小説」の圧倒的優位性、そして「詩歌」が「小説」に取って代わられていくという過程が、逍遥にとっては自明のこととして論じられる。
⑫
このような逍遥の主張を現代から見て、それがあまりにも単純すぎると批判することはやさしい。しかし、現代からかえりみて、近代における文学なるものが出発しかけたに過ぎない段階で、近代を「小説の時代」と規定した逍遥の発想はけっして軽視してはならない。実際に、近代はかつてない「小説の時代」になっていったのであり、伝統的な和歌や漢詩が、少なくとも小説に玉座を譲った時代であることを考えれば、逍遥の認識はやはり正しかったのである。
(後編に続く)
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詩歌が小説に玉座に譲ったことはわかるが、なぜ譲位が生じたのか。
これについて詳述している文献をまだ見つけられていないが、どこかにあるのだろうか。
文献要約:海野圭介(2012)「読み」の歴史:中世における古今和歌集の読み解きをめぐって ハルオ・シラネ、兼築信行、田渕句美子、陣野英則(編)『世界へひらく和歌:言語・共同体・ジェンダー』 勉誠出版 p.133-140
『古今和歌集』を読み手の受容意識の歴史から見た論文。統一的な解釈が存在しないところから始まり、密教、宋学を基盤とした寓意的な読解がなされていった経緯を明らかにする。寓意的な読解は、本来的に非宗教テクストであり、何らかの教えを説くことを意図しないテクストから教えを得ようとする読み手の欲望の歴史でもあった。
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※囲み数字は段落番号を指す
読みの歴史へ
①
「読み」の歴史は、テクスト解釈の歴史であるとともに、テクストとテクストを包含する実態社会との関係の歴史である。
e.g. 前近代において絶大な権威を有していた『古今和歌集』が明治時代(1868~1912)以降に「くだらぬ集」と見なされたのは、正岡子規一人のせいではないとしても、やはり近代的価値観による再定義であった。
②
抑も、受動的行為と理解されてきた「読み」をめぐる課題が日本古典文学研究について注目を集めたのは、「読み」の含み持つダイナミズムの具体相が明らかにされてきたからに他ならない。
③
問い:注釈の歴史をテクスト解釈の発展の歴史(テクスト解釈が順次整備され正しい解釈へと至るという発展的史観に基づく歴史)としてではなく、読み手の受容意識の歴史として見た場合、どのような視界が開かれるか?
寓意の文学としての『古今和歌集』
④
平安時代後期頃(12世紀後半頃)にはじまる、始発期の『古今和歌集』を対象とした読み書きとその伝授においては、師が弟子に教えるべき事柄は一定していなかったと浅田徹は推測している(浅田[1995]、浅田[1997]、浅田[1998])
⇒藤原教長(1109~80)『古今集注』、藤原俊成(1114~1204)『古今問答』を見ても、確かに総体的な統一感は見出し難く、任意の事柄に対して解釈が加えられ読み解きが行われているように見える。
⑤
平安時代末頃から鎌倉時代(1192~1333)にかけて、藤原俊成やその息・定家(1162~1241)らの周辺で、勅撰和歌集を撰集し和歌に関わる公事に関与する和歌の家が成立し、それぞれの家に伝領すべき『古今和歌集』証本が選定されることによって、自家の証本の素性の正しさを証し、その解釈の優位性を述べる形の施注が行われるようになる。
⇔一方で、鎌倉時代中期以降には『古今和歌集』を寓意の文学として読み解く解釈が盛んに行われるようになる。
⑥
・同音異義語の中に重層的な意味を見出そうとする
e.g. 「島」の字を音の通じる「四魔(しま)」の譬喩と見る
・漢字を分解し、その構成要素に新たな意味を見出そうとする
e.g. 「伊勢」の字を「人」「丸」「尹」「生」「力」と分解し、「人丸(=人麻呂)生まれて尹(まさ)に力あり」と読み、人麻呂と『伊勢物語』の主人公である在原業平との密接な関係を説明しようとする
のような、半ば強引に関係性を作りだし、表に表現される意味とは異なる意味を奥に見出すことを起点として、隠された密教的な寓意を読み解くことを『古今和歌集』を「読む」ことであるとする注釈が現れてくる。
⑦
こうした解釈においては、和歌に詠まれた事物・事象の多くは、密教的な寓意の世界へと読み替えられてしまい、表に表現された和歌の世界については全く顧みられることはない。しかしこのような「読み」においては、現在的な意味での和歌の「読み」として行われる解釈や鑑賞は求められていなかったと解した方が施注の意図を理解しやすい。
⑧
和歌の言葉と論理を密教のそれで言い換える試み、和歌の世界を密教の世界へと置換することが、『古今和歌集』を「読む」こととされた。
和歌の心と宋学
⑨
東常縁(1405?~1484?)による『古今和歌集』講釈を宗祇(1421~1502)が記録した『両度聞書』は、表面的な歌意の裏に寓話的な治世・治身の教誡を読み解く点で前代の密教的読解と類似するが、儒学・禅・吉田神道(吉田兼倶(1435~1511)により大成された神道の一流派)といった室町期の公家や武家の教養を背景として構成されている。
⑩
宗祇流の寓意の読み解きが受け入れられていった背景には、性理学(筆者注:宋以降の儒学)を骨子とする学問の素地があったと見てよい。
⑪
『古今和歌集』の仮名序に「やまとうたは ひとのこころをたねとして よろづのことのはとぞ なれりける」と書かれた和歌の詠出と「心」との関係をめぐる課題は、同じく「心」の問題を主要なテーマとした宋学流行の流れの中で、その方法を用いて再定義された。そして、和歌と宋学の説く人倫の道との関係が大きな課題としてクローズアップされたと理解される。
治身の学としての和歌
⑫
三条西実隆(1455~1537)は宗祇による『古今和歌集』の秘説の授受を「只修身の道」と日記に記した。師の『古今和歌集』の読み解きを聞き、秘説を受けるという極めて儀礼的な行為も、実態社会において自身の身を修めるために機能するという実隆のこの発想は、この時代における『古今和歌集』を「読む」ことの社会的意義を端的に説明している。
⑬
実隆の言は秘説を受けることを起点として、相伝される者その人に感得される何ものかの存在を伝えていると考えられる。それは「修身」の語に象徴されるこの世の道理であった。
⑭
和歌を「読む」ことが学問として受け継がれるためには、和歌を理解することの先にその理解を通して更に深遠なものが感得されるとイメージされる必要があったと考えられる。
「読み」の歴史のゆくえ
⑮
中世における『古今和歌集』の「読み」は、前近代における二つの大きな知の体系である仏教(とりわけ密教)と儒学との関わりの中でその方向性が規定されてきた。
⑯
前近代的「読み」との決別を語る際に引き合いに出されることも多い本居宣長は『源氏物語』を「読む」ことの効用を「もののあはれを知る」としたが、この著名なフレーズも、「読み」を通して感得される享受者の心のあり様を述べるスキームから逃れられていないことは改めて留意されるべき
⑰
本稿では『古今和歌集』をめぐる「読み」の歴史の一端を、「読み」に期待されたものの歴史として考えてみた。
『古今和歌集』に限らず、『伊勢物語』『源氏物語』といった平安古典は、そこから何らかの寓意を「読む」ことを期待されたテクストとして享受された歴史を持つ。
⇒それは本来的に非宗教テクストであり、何らかの教えを説くことを意図しないテクストから教えを得ようとする読み手の欲望の歴史でもあった。
(以上)
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この論考では扱われていないが、テクストが寓意的な読解の対象となるには条件があるのではないだろうか。平安期の作品ならどれでも寓意的読解の対象となるとは思えない。
読者と時代が隔たっていて解釈が難しく、神秘化されやすいだとか。
表に表現された意味を読むだけでは率直に言ってつまらないから寓意を読みたくなるとか。
何かしら深読みを誘う作品の要件があるように思う。
文献要約:五味渕典嗣(2006)和歌をめぐるジェンダー構成 浅田徹・勝原晴希・鈴木健一・花部英雄・渡部泰明(編)『帝国の和歌』 岩波書店 p.88-89.
①
問い:一般に"短歌革新"の担い手とされる二人の書き手(与謝野鉄幹と正岡子規)が、一方(鉄幹)は自身のマニフェストに「現代の非丈夫的和歌を罵る」という副題を付け、もう一方(子規)は『古今集』を尊んでいた過去の自分を悔やむ文脈で「あんな意気地のない女にばかされて」いた、と書き付けたのはなぜなのか?
⇒ジャンルとしての短歌の自立――〈和歌〉からの意識的な切断――を目指す試みが、日清戦争期という歴史的条件の下で展開されたこととかかわっている
②
一つのヒント:『帝国文学』に載った小文「和歌の題目」(1895.8)
・「雄壮奇矯」な漢詩が〈男〉たちの戦場での叙事を担当し
・「和歌」は、〈女・子ども〉への「同情」をうたいあげる
⇓
ジャンルとしての「和歌」が表象する内容を、〈女性的なもの〉として否定的に言及して見せる言説は萩野由之「小言」(1890)以来の和歌改良論の定型だが、
注意したいのは
これとよく似た語りが、すでに
〈漢〉=中国(清/志那)=「雄壮」
〈和〉=日本=「優美」
というかたちで、それぞれの国民文化・文学の特質として記述されていたという事実
文化をジェンダーの比喩で語る行為はそれぞれの文化と性を一枚岩的な表象に綴じ込むイデオロギーにすぎない。しかし
問い:まぎれもなく表象上の戦争でもあった日清の衝突が、従来の〈和〉と〈漢〉との区分けにいかなる揺動をもたらしたのか?
③
日清戦争期の新聞や雑誌は、日々の戦況報道や論説記事の中で、
勇敢で気骨があって男らしい〈日本〉と、そうではない〈清/志那〉という地政学的な自認の言説を偏執的に繰り返していた。
↕
②の言説と照らしたとき
ネーションとしての〈日本〉の文化的な固有性を確保するために作り出された語りと、現実の戦争を了解可能なものとする行為遂行的な語りとの間で、無視できない齟齬が生じる
④
鉄幹:〈男らしく〉行為したという内容のレベルを過剰なまでに前景化することで、形式をめぐる定式化されたイメージを、できるだけ読み手の意識から遠ざけようとした
⑤
「和歌の題目」において、「和歌」と「漢詩」とが同列に扱われていたことも重要
子規:
形式としての「和歌」自体は価値中立的で、その中の要素として、従来の歌ことばと、「漢語」「洋語」がある、という発想が成り立っている。
=〈漢〉を外部化した上で、あくまで詩形の構成要素として接合し直す。もしくは、〈和〉のみならず、〈漢〉や〈洋〉も受け止める器として、三十一文字の形式を意味づけ直す。
鉄幹⇒女性的だとされた〈和〉の抑圧
子規⇒女性的だとされた〈和〉の記憶の排除・消去
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一方には
・〈漢〉=中国(清/志那)=「雄壮」
・〈和〉=日本=「優美」
としてそれぞれの国民文化・文学の特質を記述していた旧来の言説がある。
もう一方に
・勇敢で気骨があって男らしい〈日本〉と、
・そうではない〈清/志那〉
という、日清戦争を遂行するための地政学的な自認の言説がある。
その両者を共に視野に入れてしまった者=鉄幹と子規がどのようにアポリアに対処したかという論。
鉄幹は時代錯誤な〈男らしい〉行為(e.g. 国を思い、剣を撫し、酒をあおいで世を憂い、無為の自分を嘆く)をしたという内容のレベルを過剰なまでに前景化することで、形式をめぐる定式化されたイメージをできるだけ読み手の意識から遠ざけようとした。
言い換えると女性的だとされた〈和〉を抑圧したということ。
もう片方の子規は形式としての「和歌」自体は価値中立的で、その中の要素として、従来の歌ことばと、「漢語」「洋語」があると解釈する方法を取った。
別の言い方をすると〈漢〉を外部化した上で、あくまで詩形の構成要素として接合し直す。もしくは、〈和〉のみならず、〈漢〉や〈洋〉も受け止める器として、三十一文字の形式を意味づけ直す。
筆者はそのことを〈和〉の記憶の排除・消去と説明している。