文献要約:海野圭介(2012)「読み」の歴史:中世における古今和歌集の読み解きをめぐって ハルオ・シラネ、兼築信行、田渕句美子、陣野英則(編)『世界へひらく和歌:言語・共同体・ジェンダー』 勉誠出版 p.133-140

古今和歌集』を読み手の受容意識の歴史から見た論文。統一的な解釈が存在しないところから始まり、密教宋学を基盤とした寓意的な読解がなされていった経緯を明らかにする。寓意的な読解は、本来的に非宗教テクストであり、何らかの教えを説くことを意図しないテクストから教えを得ようとする読み手の欲望の歴史でもあった。

 

----

 

※囲み数字は段落番号を指す

 

読みの歴史へ

 

「読み」の歴史は、テクスト解釈の歴史であるとともに、テクストとテクストを包含する実態社会との関係の歴史である。

e.g. 前近代において絶大な権威を有していた『古今和歌集』が明治時代(1868~1912)以降に「くだらぬ集」と見なされたのは、正岡子規一人のせいではないとしても、やはり近代的価値観による再定義であった。

 

抑も、受動的行為と理解されてきた「読み」をめぐる課題が日本古典文学研究について注目を集めたのは、「読み」の含み持つダイナミズムの具体相が明らかにされてきたからに他ならない。

 

問い:注釈の歴史をテクスト解釈の発展の歴史(テクスト解釈が順次整備され正しい解釈へと至るという発展的史観に基づく歴史)としてではなく、読み手の受容意識の歴史として見た場合、どのような視界が開かれるか?

 

寓意の文学としての『古今和歌集

平安時代後期頃(12世紀後半頃)にはじまる、始発期の『古今和歌集』を対象とした読み書きとその伝授においては、師が弟子に教えるべき事柄は一定していなかったと浅田徹は推測している(浅田[1995]、浅田[1997]、浅田[1998])

藤原教長(1109~80)『古今集注』、藤原俊成(1114~1204)『古今問答』を見ても、確かに総体的な統一感は見出し難く、任意の事柄に対して解釈が加えられ読み解きが行われているように見える。

 

平安時代末頃から鎌倉時代(1192~1333)にかけて、藤原俊成やその息・定家(1162~1241)らの周辺で、勅撰和歌集を撰集し和歌に関わる公事に関与する和歌の家が成立し、それぞれの家に伝領すべき『古今和歌集』証本が選定されることによって、自家の証本の素性の正しさを証し、その解釈の優位性を述べる形の施注が行われるようになる。

⇔一方で、鎌倉時代中期以降には『古今和歌集』を寓意の文学として読み解く解釈が盛んに行われるようになる。

 

同音異義語の中に重層的な意味を見出そうとする

e.g. 「島」の字を音の通じる「四魔(しま)」の譬喩と見る

・漢字を分解し、その構成要素に新たな意味を見出そうとする

e.g. 「伊勢」の字を「人」「丸」「尹」「生」「力」と分解し、「人丸(=人麻呂)生まれて尹(まさ)に力あり」と読み、人麻呂と『伊勢物語』の主人公である在原業平との密接な関係を説明しようとする

のような、半ば強引に関係性を作りだし、表に表現される意味とは異なる意味を奥に見出すことを起点として、隠された密教的な寓意を読み解くことを『古今和歌集』を「読む」ことであるとする注釈が現れてくる。

 

こうした解釈においては、和歌に詠まれた事物・事象の多くは、密教的な寓意の世界へと読み替えられてしまい、表に表現された和歌の世界については全く顧みられることはない。しかしこのような「読み」においては、現在的な意味での和歌の「読み」として行われる解釈や鑑賞は求められていなかったと解した方が施注の意図を理解しやすい。

 

和歌の言葉と論理を密教のそれで言い換える試み、和歌の世界を密教の世界へと置換することが、『古今和歌集』を「読む」こととされた。

 

和歌の心と宋学

 

東常縁(1405?~1484?)による『古今和歌集』講釈を宗祇(1421~1502)が記録した『両度聞書』は、表面的な歌意の裏に寓話的な治世・治身の教誡を読み解く点で前代の密教的読解と類似するが、儒学・禅・吉田神道吉田兼倶(1435~1511)により大成された神道の一流派)といった室町期の公家や武家の教養を背景として構成されている。

 

宗祇流の寓意の読み解きが受け入れられていった背景には、性理学(筆者注:宋以降の儒学)を骨子とする学問の素地があったと見てよい。

 

古今和歌集』の仮名序に「やまとうたは ひとのこころをたねとして よろづのことのはとぞ なれりける」と書かれた和歌の詠出と「心」との関係をめぐる課題は、同じく「心」の問題を主要なテーマとした宋学流行の流れの中で、その方法を用いて再定義された。そして、和歌と宋学の説く人倫の道との関係が大きな課題としてクローズアップされたと理解される。

 

治身の学としての和歌

三条西実隆(1455~1537)は宗祇による『古今和歌集』の秘説の授受を「只修身の道」と日記に記した。師の『古今和歌集』の読み解きを聞き、秘説を受けるという極めて儀礼的な行為も、実態社会において自身の身を修めるために機能するという実隆のこの発想は、この時代における『古今和歌集』を「読む」ことの社会的意義を端的に説明している。

 

実隆の言は秘説を受けることを起点として、相伝される者その人に感得される何ものかの存在を伝えていると考えられる。それは「修身」の語に象徴されるこの世の道理であった。

 

和歌を「読む」ことが学問として受け継がれるためには、和歌を理解することの先にその理解を通して更に深遠なものが感得されるとイメージされる必要があったと考えられる。

 

「読み」の歴史のゆくえ

 

中世における『古今和歌集』の「読み」は、前近代における二つの大きな知の体系である仏教(とりわけ密教)と儒学との関わりの中でその方向性が規定されてきた。

 

前近代的「読み」との決別を語る際に引き合いに出されることも多い本居宣長は『源氏物語』を「読む」ことの効用を「もののあはれを知る」としたが、この著名なフレーズも、「読み」を通して感得される享受者の心のあり様を述べるスキームから逃れられていないことは改めて留意されるべき

 

本稿では『古今和歌集』をめぐる「読み」の歴史の一端を、「読み」に期待されたものの歴史として考えてみた。

古今和歌集』に限らず、『伊勢物語』『源氏物語』といった平安古典は、そこから何らかの寓意を「読む」ことを期待されたテクストとして享受された歴史を持つ。

⇒それは本来的に非宗教テクストであり、何らかの教えを説くことを意図しないテクストから教えを得ようとする読み手の欲望の歴史でもあった。

 

(以上)

 

----

 

この論考では扱われていないが、テクストが寓意的な読解の対象となるには条件があるのではないだろうか。平安期の作品ならどれでも寓意的読解の対象となるとは思えない。

読者と時代が隔たっていて解釈が難しく、神秘化されやすいだとか。

表に表現された意味を読むだけでは率直に言ってつまらないから寓意を読みたくなるとか。

何かしら深読みを誘う作品の要件があるように思う。